ドラム少年ビンタ騒動が、映画「セッション」とカブっていて驚いた!
日野皓正さんがコンサートの途中、公衆の目前でドラムを叩き続けている少年をビンタしたという話題、未だに尾を引いていますね。
私も、あの切り取った場面だけを見た時は「何も皆の目の前で・・」と思っていました。
しかし少年が一人ドラムソロを延々と続けていた、という証言があり、日野さんを擁護する声も多々。
ほー、そうなんだ。少年も調子に乗っちゃっていたのかな?
という感じでだったのですが、映画「セッション」を見て、理由がわかったような気がしました。
「セッション」とはどういう映画なのか
先週、DVDをレンタルしにいったのですが、旦那がこれ見ない?というので何の予備知識もなく借りてきました。
私は知りませんでしたが、第87回アカデミー賞で5部門にノミネートされ、3部門で受賞をした映画です。
監督デミアン・チャゼルは、この「セッション」で成功を収めて、あの大ヒット映画「ラ・ラ・ランド」を製作するに至りました。
あらすじを簡単に説明すると、
19歳のアンドリュー・ニーマンは、偉大なドラマーになるべく、アメリカの最高峰の音楽院へ進学。そして最高の指揮者として名高いテレンス・フレッチャーの指導を受けることになります。
しかしフレッチャーの指導は常軌を逸した厳しさ!
肉体的・精神的に追い詰められたニーマンは、とうとうドラムの道を諦めることに・・・。
さてどうなる?という話です。
この鬼指導者のフレッチャー役を演じていたのはJ・K・シモンズ。この映画で助演男優賞を受賞していますが、完全なるはまり役です。
フレッチャーのしごきは、しょっぱなからビンタ4回していますが、そんなものではありません!
椅子は飛んでくる、皆の前で心をえぐるような言葉を浴びせる、一瞬優しい顔を見せたかと思えば、突き落とすような冷酷な態度をする。
偉大なドラマーになりたい!という野望にとりつかれたニーマンもまた、最初はたじろいでいるものの、フレッチャーに負けてはいません。
指のマメが潰れて血だらけになりながらドラムを叩き続けるのです。
ドラマー=「演奏家」というより、まるで「ボクサー?」
そこでハッとしましたね。
ミュージシャンて、イメージのように華麗なものじゃないんだ。
目と耳と手を動かしているだけで奏でられるものではないんだって。
実際、弦楽器なら腕や指、背中の強靭な筋肉が必要だし、吹奏楽器なら肺活量も必要。
ドラムなんてもう、全身運動ですよね。
実はこの映画の原題は「Whiplash」。
映画の中で登場する曲の名前でもあるのですが、「首のむち打ち症」の意味があるそうです。
ドラムを叩きすぎることで起こる障害らしいのですが、この場合は心も含めて、なのでしょうね。
最近ではX JAPANのYOSHIKIさんが頚椎を痛め、頚椎人工椎間板置換の緊急手術をしましたし、RADWIMPSのドラマーの山口智史さんも、フォーカル・ジストニアと呼ばれる、長い鍛錬の末の神経性の症状に悩まされ、ドラムが叩けなくなりました。
つまり、映画の中で描かれている肉体の酷使は決して誇張ではないのです。
この映画はプロの音楽家などからも賛否両論で、映画の中で描かれる異常な指導の描写に不快感を覚える人も多いようです。
私も、フレッチャーのような指導は、結果的には有望な音楽家を潰すことになるとしか思えません。
ビンタされた少年が演奏を続けていたワケ
ではなぜ、私がこの映画を見て、ビンタされた少年がドラムソロを続けたのかわかった気がしたのか・・・。(ちょっとネタバレ)
この映画のクライマックスで、主人公ニーマンがドラムソロを延々と続けるシーンがあります。
ジャズはその時の気持ちでの突発的な演奏が行われたりします。
それはあらかじめ決められたものではなく、生の、その時に生み出されるものであって、
楽譜などには表せない"瞬間のアドリブ演奏"!
おそらくドラムをしていた少年も、この映画を見ていたと思います。
きっと彼も、こういうアドリブをしたい、もしくは気がついたらしてしまった、のでしょう。
しかし、この会場はもちろん彼だけのものではなく、いつまでも延々と続くドラムソロに演奏している学生も、聴衆も困惑してしまいました。
このエピソードで思い出したのが、やはりRADWIMPSのドラマーが、他の人間の音を全然聴いておらず、ボーカル(野田洋次郎さん)も困惑したエピソードです。(自叙伝より)
ドラムは曲のテンポを司る上に音も大きい、バンドの中でもかなり目立つ存在です。
だから、ドラマーは独りよがりになりやすいのかも?
プロでも陥りがちなのかもしれず、ましてや彼はまだ中学生なのですから、コントロール不能になってしまったのも理解できました。
日野さんは、文字どおり「目を覚ませよー!」という感じでビンタ(?)したのでしょうね。
その場で彼を止める手段が体に直接訴えかけるしかなかった。
怪我するような体罰は絶対に反対ですが、この場合はそういうワケでもなさそうですし、これ以上外野が責め立てるのは薬になるというより、有望な若手育成に害になるのではと思います。
(映画のフレッチャーに比べたら、日野さんなんて超優しく見えてしまいますよ。)
さてこの少年の場合は日野さんにより止められましたが、映画ではニーマンがドラムソロを延々と続けます。
その時に何が起きたか・・・私なりの考察を書きましたので、下記の「続きを読む」を押してくださいね。
(完全にネタバレするので、映画を見ていない人は、ぜひ見てから読んでくださいね。)
*ドラムソロのその結果(完全にネタバレあり)*
映画の終盤。
ドラムをやめたニーマンは偶然フレッチャーと出会い、自分が指揮をする音楽祭のドラムをやらないか?とニーマンを誘います。
そこではあのジャズの名門ブルーノートからスカウトマンも来ているという。
ニーマンは一念発起し、参加。しかし当日演奏するのは、フレッチャーから聞いていたのと違う曲だった!
フレッチャーは、自分が音楽院をやめさせられたのをニーマンの密告のせいだと思い、復讐したのでした。
周囲も困惑する中、大恥をかかされたニーマンは一度は席を立つ。
しかしもう一度戻り、指揮者のフレッチャーと対峙する決意でドラムを叩き始めたニーマンは、演奏するうちに音楽の高みに上り詰めていく。
その演奏に徐々に引き込まれていくフレッチャー。
その瞬間、どちらもがお互いに抱いている苦い思いなどは吹き飛んでしまった!
邦画のタイトル「セッション」とは、「他者との演奏」を意味します。
このシーンは「独奏」に見えますが、実はフレッチャーとの魂のセッションを表していたのでは?
フレッチャーもニーマンも、正直、良い人間とは程遠い。
「エゴイスト」「サディスト」「変人」なのかもしれません。
だけど「音楽」にかける桁外れの情熱と執念は、お互い嘘がないのです。
「音楽」に取り憑かれた二人が、ニーマンの演奏により、憎しみも怒りも通り越して一体となった(と感じました)。
私はこのラストシーンに感動しましたね。
暴力や怒りを超えた、
絶対的な「音楽への愛」を感じました。
この映画、監督自身がドラマーになるために経験した実体験がもとになっていて、監督は自分にはプロの演奏家になる才能がない、とドラマーの道を諦め監督を目指したそうです。
最高の演奏をするミュージシャン。
そこを目指すのがどれだけ辛く厳しく、孤独なのか・・・
でもすべての負の感情も過去も吹き飛ばす、その瞬間がある。
そして生み出された音楽は本人の昇華だけではなく、周囲にも幸せや感動をもたらしてくれる・・・。
今回のドラムの少年も、自分の演奏だけにのめり込むのではなく、他者との”セッション”を忘れないで欲しいなと思います。
この先、心身ともに壊すことなく、音楽の道を頑張ってほしいですね。